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五「臓」と五「蔵」

五臓と五蔵
現代医学の解剖学では五臓の名前は肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓というように、
「ニクズキ」のついた五「臓」の字と認識している。
しかし、東洋医学の原典である『素問』、『霊枢』などには「臓」の字はみあたらず、
「ニクズキ」がつかない五「蔵」となっている。
つまり、東洋医学でいう五「」とは、単に解剖学的な「臓」器ではなく、生理的な機能単位であり、それぞれ中に何か重要な要素を収めている意味合いを示している。

蔵と府(臓腑)の違い-蔵するものと瀉するもの
『素問』において、蔵府の区分についての「蔵・瀉」が記述されている。

蔵というのは、精気を貯蔵して出さないそこで常に精気が充満しているため、胃腸のように水穀を受納し、充実することはできない。府は消化した食物を伝送するものであり、貯蔵することはできない。そこで水穀が充実しているが精気は充満することはない。
『素問 五蔵別論 第十一』

蔵は精気を貯蔵し、精気の充満が重要となる。つまりは“精気を貯蔵して出さない”となる。
対して、府は輸送して排泄を司り、伝化する物は形のある水穀を主として、通降することが大切なので、停滞し詰まってはいけないとある。そのため“精気は充満することはない”となる。

 

蔵府の蔵瀉と病証-虚証と実証
五蔵は生命のもとである精をたくわえているところで傷つけてはならない。傷つければ、精を保持することができずに陰虚の状態になり、陰虚の状態になれば気がなくなり、気がなくなれば死ぬ。『霊枢 本神篇 第八』

五蔵は人体の生理活動の核心であると認識され、五蔵が精気を貯蔵する働きができなくなると重病となる。よって五蔵は精気を貯蔵する働きを主として、精気が満ちることが重要である。精気が損失(虚の状態)すれば五蔵が虚証となるため、五蔵病は虚証が多い。したがって、虚証は五蔵に関わることが提示され、補う治療を中心とする。
六府は消化したものを伝送するため、“充実することはできない”となる。府は次々と物を送りだすが、1ヶ所に止めすぎたり、尿・便などの廃物が体内に滞り、濁った気の排泄ができなくなる(実の状態)と六府には実証が多くなる。故に臨床上、実証は六府の病証に負うところが多いと提示されている。

 

※張仲景の『傷寒論』の三陽経(太陽、少陽、陽明) は実証が多く、治療は去邪を中心とする。
三陰経(太陰、少陰、厥陰 )は虚証が多いため、治療は補虚を中心とする。

 

実際には五蔵(臓)の貯蔵には瀉があって、六府(腑)の瀉にも貯蔵があり、完全に対立し、絶対的なものではない。臓蔵と腑瀉に対しては弁証的に、臨機応変に見極める必要があると考えられる。

 

●(精気を蔵する)五蔵と五味
五蔵と、その蔵する精気の不足、それを補う五味の関係について、以下の記述がある。

五味は口より入り、腸胃で消化吸収され、それぞれ五蔵する所)に入って、五気(神思魄精の5つの精気)を養う。
『素問 六節蔵象論 第九』

五蔵の精気が不足しているものは、酸・苦・甘・辛・鹹 の五味の中で、治療を必要とする蔵に相当する味の薬物を与えて補ってやる。
『素問 陰陽応象大論 第五』

 

五蔵が蔵するもの-肉体的要素・精神的要素
◎五蔵の精神的要素(五神~七神)に関する記述
五蔵の蔵する所。心は神を蔵す。肺は魄を蔵す。肝は魂を蔵す。脾は意を蔵す。腎は志を蔵す。
 是れを五蔵の蔵する所と謂う。
『素問 宣明五気篇 第二十三』

五蔵。心は神を蔵し、肺は魄を蔵し、肝は魂を蔵し、脾は意を蔵し、腎は精・志を蔵するなり。『霊枢 九鍼論篇 第七十八』

五蔵に七神有り、各々何を蔵する所ぞや。”“然るなり、蔵は人の神気の舎蔵する所なり。
肝は魂を蔵し、肺は魄を蔵し、心は神を蔵し、脾は意と智を蔵し、腎は精と志とを蔵するなり。
『難経 第三十四難』

 

◎人体を形成するもの(⇒肉体的要素)に関する記述
心は神を蔵し、肺は気を蔵し、肝は血を蔵し、脾は肉を蔵し、腎は志を蔵し、ここで初めて人体を形成する。
『素問 調経論篇 第六十二』

 

◎人間の精神状態(感情)と肉体の関係、影響についての記述
肝は血を蔵し、血は魂を宿す。・・・脾は営を蔵し、営は意を宿す。・・・心は脈を蔵し、脈は神を宿す。・・・肺は気を蔵し、気は魄を宿す。・・・腎は精を蔵し、精は志を宿す。
『霊枢 本神篇 第八』
(※・・・の間にさらに五志:感情の肉体への影響についての記述がある)

 
◎五主(蔵が栄養を補充するもの)に関する記述
肝は筋膜の気を蔵する。”“心は血脈の気を蔵する。”“ 脾は肌肉の気を蔵する。 ”“腎は骨髓の気を蔵する。
『素問 平人氣象論篇 第十八』
心の合、すなわち心の気の集まるところは脈にある。”“肝の合は筋。”“脾の合は肉。”“肺の合は皮。”“腎の合は骨。
『素問 五臓生成篇 第十』

 

五蔵から五臓への変遷-西洋医学の五臓、東洋医学の五蔵
江戸時代にオランダ語の解剖学書の日本語訳が行われた。その際、翻訳し、実際の臓器の名前を付ける過程で、東洋医学の用語を拝借し、にニクヅキを付けて、西洋医学の臓を指す言葉にしたといわれる。これより、おそらく重要な要素を蔵する」という本来の五「」の意味は失われていき、臓器のみを意味する五「臓」となっていった(意味合いが変わっていった)と思われる。

※『解体新書』のような初期の蘭学書の場合では、人々がこれまでに心に得し医道に比較し、速に暁り得せしめんとするを第一とせり。(『蘭学事始』下)とあり、翻訳・刊行において、ある意味での妥協も与儀なくされたことが多かったようだ。

※また、解体新書は1774年に発刊されたが、同時代の吉益東洞(1702~1773)などにより、五行説を否定した古方派が台頭していった時代の流れも、上記の背景のひとつではないだろうか。

※蛇足だが、杉田玄白が『解体新書』の冒頭部分では、(『霊枢 経水篇 第十二』で)解剖して視てみよと書いてあるが、後世の人にそれが伝わっていなかった。と述べるなど、伝統医学を全否定したのではなく、古典そのものよりも後の解釈を問題としている一端が見られる。

 

しかしながら、今日の主流医学においても、そこで用いられる解剖学用語をみれば、西洋解剖学的視点によって切り捨てられようとした東洋伝統医学独自の身体論によるものが色濃く残っている。

以上より、東洋医学でいう心(⇒心「蔵」)や肝(⇒肝「蔵」)と、現代医学でいう心「臓」や肝「臓」などでは、ニクズキがつくかつかないかで大きな違いがあることになる。

臓の字の付いたものは臓器を指すが、東洋医学で意味するは臓器の機能のみでなく、精神や感情のなどの働きがある蔵していることも意味し、イコールではない臓、もしくは臓か)

これは、心身一如の考えを持つ東洋医学(⇒精神、重要な要素を含む蔵、生理学単位としての蔵)と、物質に根差した物理科学の上に成り立つ西洋医学(⇒物質、臓器としての臓)との違いを表している。